こんばんは、Tatsuyaです。
今日は
🔥文化を知る🔥
ということについてお話していきたいと思います。
文化を知るというのは具体的にどういうことか考えたことがありますか?
そもそも普段何気なく使っている文化とはどういう意味なのでしょうか。
僕は言語を学習している身ですが、英語やフランス語、日本語なども文化に入るのでしょうか?
掘り下げていくと様々な疑問が出てくるのがこの文かです。
今日はその『文化』に対して先人たちがどのように研究してきたのかをお話いたします。
それではやっていきましょう!
1.文化の辞書での定義は?
ある集団の創造的な成果を表象する、目に見える所産を指して使用しています。
e.g. 芸術、文学、食べ物、記念建造物など
日本であれば、寿司などの食文化、水墨画などの芸術作品も文化といえるということですね。
ですが実はこの文化の定義の細部はいまだに解決のつかない議論となっています。
語源的見ると”cultivate(耕す)”、”agriculture”と繋がり“culture”(17世紀)になりました。
言葉ができて何百年と経った今でも、文化という言葉の細部の定義は決まっていないということになります。
19世紀には2つの意味で使われ始めます。
1.ある人は他の人より「教養がある」という望ましい資質
2.世界をいくつもの「文化」に分けて固有の価値を有すること(人類学的な意味)
1に関しては文化人というような言葉があるように、教養がある人に対して使われる表現ですね。
2に関しては、アメリカ文化、イギリス文化、日本文化というような地域ごとで使われ始めるということになりますね。
2.人間の違いは人種の違い
20世紀初めから半ばまで、人間の違いというのは人種によって行動が決定する(人種決定論)というのがマジョリティーの考えでした
20世紀前半の人類学者や社会学者は、社会文化的環境が人間の行動を決定する大きな要因と力説していたのです。
つまり、アメリカ人だから、日本人だからというように、人種によって人間の行動が決まると考えられていた訳です
その考えがマジョリティーの考えであったわけです。
何か野蛮なことをすれば、あいつは〇〇人だからと考えられたわけですね。
人種差別等、人種による考え方が大きくゆがんでいた時代であったわけです。
3.先人たちの文化の捉え方は?
まず僕が挙げたいのは『タイラー』という人物です。
タイラーは、文化もしくは文明とは、人間が社会の一員として獲得した能力や習性などの複合的全体である
と考えました。
「文化」は静的なものではなく、進行中のプロセスのなかで修正されて作り直されるとしたのです。
つまりどういうことかと言いますと、文化や文明というのは、そこの社会で生きる人間の能力や習性が合わさったものであるということです。
例えば、イギリス人や、アメリカ人大きなくくりではなく、もっと小さな視点で見ると合点がいくと思います。
例えばアマゾンの奥地に住む部族はで表すと、彼らの能力や習性の集合が文化や文明というのであり、それらは常に変動をし続けるということです。
もう一人挙げておきたいのが『エドワードホール』という人物です。
彼は異文化コミュニケーションについて考えました。
「異なる文化の枠組みを持つ者同士が出会うとどうなるのか」
彼は文化とは、コミュニケーションを可能にするが異文化間の葛藤を不可避にするような、共有された意味についての無意識の枠組みであると考えます。
文化的条件付けには気付かず、思考方法やコミュニケーション様式における隠れた差異が異文化理解への障壁になると考えました。
自身が属する文化の型を知ることで文化的制約から解放されるとし、
コミュニケーションと文化における「高コンテクスト」と「低コンテクスト」と定義しました。
1.高コンテクスト→コンテクストに比較的多く依存し、言語そのものにはこだわらない
『一言で十分』
2.低コンテクスト→実際の伝達内容により多く依存
『言いたいことは全部言う』
これらがコミュニケーション様式や文化集団を比較する基準となるのです。
言いたいことを全部言うのは欧米文化の考えで、日本は空気を読む文化であるので高コンテクストであると言えます。
ですがすべてがすべてそういう訳ではありません。
英語の中にも高コンテクストなものはありますし、空気を読む文化がないわけではありません。
その話をするとまた長くなりますが、以前に一度記事を書いていますのでそちらを参考にしてください。
🔽お金返して!って英語でなんて言う?Brown&Levinsonって知ってる?!
それでは今日はこの辺で。